生息環境の変化
上述の昆虫類のハビタットの多くは現在人為的,自然的影響によって環境の悪化が起こり,そこに生息する昆虫類の減少ないし絶滅に影響している。これらの危機的状況について人為的条件と自然条件にわけて以下に述べる。
- ハビタットへの人為的影響
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(1) 湿地・ため池
本県の湿地ないし湿地的環境は自然状態のものはほとんど失われている。福岡市の旧市街の周辺には丘陵地の沢筋などにモウセンゴケを伴う湿地が存在し,ここにはハッチョウトンボの生息などが見られたが,これらの多くは宅地開発で失われた。農業用ため池の岸辺が湿地状となっている場所や休耕田なども,農政の転換により失われている。県下の湿地化した休耕田や自然の岸辺を持ち植生の豊かなため池に対する昆虫群集の調査とその保全が急務である。多くの小型水生昆虫類は極めて小規模の止水域や湿地に依存して生息している場合が多く,特にこの点に留意して保全に努めるべきである。
- (2) 砂浜・砂丘
海岸開発,海水浴場の建設などによって砂浜環境の悪化がみられる。特に砂浜をオフロード走行に過剰に利用することによってこのハビタットの昆虫類の生息環境が著しく破壊された。また砂浜の生物群集の保全に対する配慮がなされずに,不必要と考えられる砂浜へのクロマツの植林も,本来的な砂浜,砂丘環境を著しく破壊する。そのために,砂浜へのクロマツの植林は,その必要性を十分に検討して計画されるべきであり,この場所の生物群集に破壊的な影響を与えることは避けなければならない。従前からマツノマダラカミキリによる松枯れ防止のために海岸クロマツ林への薬剤散布が続けられている。特にネオニコチノイド系の農薬の散布は昆虫群集に決定的な破壊を起こすので,環境への影響を十分に検討した上での農薬の選択ならびに散布を計画すべきである。
- (3) 石灰岩地・草原
草原は本県に限らず全国各地で消失する傾向がある。草地の開発や,その逆の放置による樹林への遷移の進行などによって草原環境は失われていく。河川の土手や農道脇などの草原的ハビタットはその重要性が看過されがちであるが,このような環境を中心的な生息場所とする昆虫類にとっては,死活的な重要性を持っている。動力草刈り機による地表ギリギリまでの草刈りが年間に数回行われると,その場所に生育する植物の多く,特に一年生草本は急速に消失し,その結果ここをハビタットとする昆虫類には致命的な影響を及ぼす。単に効率を重視するような管理は見直さなければならない。草地の改変が必要な場合は,そこに見られる昆虫群集を十分に研究して,その保全について考慮されるべきである。一方,県内には広大な平尾台があり,定期的な火入れを行うことで草原の維持がなされている。県内には古処山,平尾台,香春岳など全国的にも著名な石灰岩地形が存在する。石灰岩の採掘によって広範囲に開発されている場合もあり,このようなハビタットに生息する固有の昆虫群集の生存が危惧される。
- (4) 里山地域
平地から低山にわたる里山は照葉樹を主体に多くの落葉樹の樹種を交えた雑木林で,自然とうまく調和しながら農村で利用されてきた。ハビタットの項でも述べた通りいわゆる普通種が中心ではあるが,ここは昆虫多様性が著しく豊かな場所である。しかし,このような里山は宅地への開発により消滅し,また里山を公園的に管理するために犯罪防止や散策を容易にする目的で林床植生などを刈り払う傾向があり,昆虫群集の生存に不適な状況になっている。開発などを行う場合は,部分的に自然環境を残すような計画が必要であり,また公園,緑道などでの過剰な樹木の剪定や伐採,林床の清掃などは避けるべきである。
- (5) 自然林
照葉樹林,夏緑樹林を問わず自然林の伐採は極力避けるべきである。現在はスギ,ヒノキなどの計画造林は少なくなっているが,五ヶ山ダムや伊良原ダム建設に伴う予定湛水域の広範な自然林ないし二次林の伐採が行われている。このよう開発は現状への復帰は不可能であるから,伐採前に十分な生物相についての学術的調査を行い,記録を残すとともに保全措置を十分に行うべきである。
- (6) 採集圧
国内には多くの昆虫類同好者がいる。同好者の自然保全意識の程度には大きな開きがあり,希少種の保全について全く考慮しない採集を行うが決して少なくない。希少なチョウ類を2桁,3桁の個体数で採集したことをあたかも自慢のように語る悪質で愚かな同好者も現実に存在する。一方ルリクワガタ類など朽木生息性の昆虫の採集のために,幼虫が生息している可能性のある樹林内の朽木をことごとく壊して幼虫を採集する例もみられる。これらはいずれも対象種の激減につながるとともに,朽木を生息環境とする他の昆虫類も破壊する結果となる。希少種の採取はもちろん,普通種であっても必要以上の乱獲を行わない見識を育てることが重要である。
- (7) ネオニコチノイド農薬の使用
最近のネオニコチノイド系農薬の使用は,ミツバチの激減に影響しているとみられているように,昆虫類に対するその強力な残留毒性によって,昆虫群集への致命的な影響が生じていることが危惧される。EUではすでにこの農薬の使用の制限を始めている。この農薬の使用は第二のサイレント・スプリングの到来とも言われているように,ミツバチの減少に留まらない。植生など生息環境の顕著な悪化がみられないにもかかわらず,様々な昆虫類の個体数が最近激減していることは,関係者が等しく認識しているところである。ネオニコチノイド系農薬も含めて,自然生態系への影響を過小に評価して,経済的効率だけを優先する農薬散布,農政への警鐘であろう。
- ハビタットへの自然環境の影響
- (1) 地球温暖化の影響
数十年前は九州あたりを北限としていたナガサキアゲハ,ムラサキツバメ,クロコノマチョウなどが関東地方まで分布を広げ,ツマグロヒョウモンが中部山岳の2000 m級の山地に普通に観察されるような事態を見れば,地球温暖化の昆虫群集への影響は厳然とした現実である。それ自体が容易に移動できない動物や植物に比べて,多くの有翅昆虫,特に多化性の昆虫は生息に適した環境へ容易に移動して,生息地を拡大していく。地球温暖化はこのような暖地性昆虫の分布北限を北進させ,垂直分布の上限を上げるとともに,温帯性昆虫の分布の南限も北進させ,垂直分布の下限を上げることになる。マスコミで取り上げられる上記チョウ類に限らず何万種もの日本列島の有翅昆虫に同様な動きがあると理解すべきであろう。本県でも大型ヒョウモンチョウ類の激減が言われている。クモガタヒョウモン,ウラギンスジヒョウモン,オオウラギンスジヒョウモンをはじめミドリヒョウモンやメスグロヒョウモンにもこのような影響が出ている。これらのヒョウモンチョウ類は初夏に成虫が羽化してしばらくの活動の後に多くは成虫休眠(夏眠)状態になり活動を停止し,秋に休眠から覚醒して産卵する。卵は間もなく1齢幼虫に孵化するか,卵殻内に留まった状態で翌春まで摂食しないで休眠する。このようなヒョウモンチョウ類には成虫休眠期の夏季の高温は不適であり,一方冬季の高温は非摂食状態で冬眠をする1齢幼虫にとっては体力を消耗させる過酷な条件となるであろう。このように温帯性の昆虫類にとって気温の上昇はその生存に死活的な影響を与える。一方ツマグロヒョウモンのような熱帯性のヒョウモンチョウは1年に数回成虫が発生する多化性であり,冬季を摂食も行える幼虫態で越冬する。このために冬季の高温が幼虫の生存率を高めることは自明であり,このことが本種の北上並びに高標高地への進出を可能にしていると考えられる。チョウ類ではこのほかに,タテハモドキ,ヤクシマルリシジミ,クロマダラソテツシジミ等過去には本県で稀にしか記録されなかった種が,近年は本県にほぼ定着ないし毎年飛来するような状況が生じている。
- (2) 大気汚染,酸性雨などの影響
ヨーロッパで大気汚染に関係して樹木の幹に生じる地衣類が死滅し,その結果ここを静止場所とするシャクガ類などの工業黒化が起こったことは有名である。福岡市でもここ数十年の間に,市街地などの樹幹,石崖,石垣などの地衣上に極めて普通に生息していた地衣食性のヒロズミノガ,アキノヒメミノガなどが生息環境の外観的変更がほとんどみられないのに,急激に減少し,ほとんど絶滅状態になっている。これらのミノガ類は水分の少ない地衣類を摂食するので,朝夕の結露,降雨などによる水分を直接または地衣類を介して摂ることになる。大気汚染による水分の汚染や好適な食事となる地衣類の消滅などがこれら地衣食性のミノガ類の衰退に影響している可能性が考えられる。
- (3) シカによる森林植生の食害
狩猟人口の減少もさることながら,地球温暖化に伴う冬季の子ジカ死亡率の低下が日本列島全域にみられるシカの増加の一原因と推定されている。シカの増加によって,列島の森林の多くで下層植生がシカによって絶滅状態になるほどに食害されている。下層植生に限らず中径木の樹皮剥離摂食,幼樹の摂食,下層植生の壊滅に伴う林床の乾燥化などによって樹林そのものが壊滅する状況が各地で見られるようになった。九州でも熊本県白髪岳の上部樹林の壊滅はその最たるものであり,また本県でも英彦山地や犬鳴山周辺でシカによる下層植生の食害が顕著に現れている。この食害はこれら下層植生を幼虫の食餌とする鱗翅類,ハバチ,食植性甲虫類などには死活問題であるとともに,これらの昆虫に依存する捕食性,寄生性昆虫にとっても生存を著しく危うくしている。林野庁などによるシカ害防止の措置が適切に行われることは単に森林性昆虫群集の保全のみならず森林生態系の保全には必須である。